全生庵保管の幽霊画

全生庵の幽霊画

コレクションについて

円朝幽霊画コレクションについて

 はじめに 三遊亭円朝(一八三九〜一九〇〇)の墓がある東京・谷中の全生庵では、八月十一日の円朝忌を中心に、五十幅の幽霊画が虫干を兼ねて陳列される(現在は八月一日〜三十一日)。日本絵画のジャンルに花鳥画や美人画の他に幽霊画というものが成立するか否かはともかく、幽霊を描く作品を、これだけ大量に所蔵し、一堂に会して見られる場所というものを他に聞かない。私自身、人の噂を耳にして初めてこの全生庵を訪れたのはかれこれ十五年程前になるであろうか。その頃は、まだこの虫干の行事はそれ程知られずに、好事家がパラパラと参観に来る程度であったように記憶する。大量の幽霊画を真夏の蒸暑い日に一度に見て、背筋にゾクッとするものを感じたことを思い出す。近年では谷中の街輿しに円朝忌が一役買うこともあって、大いに喧伝され、大勢の人々が訪れるようになったのだという。

 ところで、この全生庵で陳列される幽霊画に故三遊亭円朝のコレクションであり、円朝が生前柳橋で怪談会を催した時から百物語にちなんで百幅の幽霊画を蒐集しはじめたものの一部であると言われてきた。しかし、今回この名画集を編むために改めて全生庵の幽霊画コレクションを調査したところ、円朝自身のコレクションではあり得ない作品も含まれていることが判明し、その形成過程を考察する必要が生じてきた。しかしコレクション形成過程に重要な役割を果たした円朝の最大の後援者であった藤浦周吉(三周)、富太郎父子は既に他界され、筆記された記憶類もほとんどないため正確な解明に至ることは困難と思われる。とはいえ、限られた資料をもとに推察を加え、以下に検討してみたい。その後、全生庵の幽霊画コレクションのうちの円朝蒐集品の性格がどのようなものなのかを考えてみたい。

遺物百幅の伝

 まず、全生庵の幽霊画コレクションが、円朝蒐集の百幅のうちのものであることが定説化した過程を探ってみよう。この伝を決定的にしたのが、昭和五十一年(一九七六)に刊行された『三遊亭円朝全集・別巻』(角川書店)で全生庵コレクションを紹介したことによる。ここで、当時全生庵が円朝忌に風入れを兼ねて展示していた五十幅の掛幅を全て図版紹介しているのだが、その際の解題として、まずこの五十幅全てを「円朝旧蔵幽霊画」としている。そしてその由来を次のように記している。

 円朝が生前、柳橋の料亭で怪談会を催した時から、百物語に因んで蒐集した約百幅の内、五十幅が、藤浦家に残り、現当主富太郎氏によって全生庵へ供養のために寄贈されたものである。

この記述によって、全生庵側の寺伝が定説化していったのは当然のことといえよう。記述によれば、当時在世中の藤浦富太郎氏の確認をもとったようにも受け止められ、コレクション形成過程を知る同氏の証言によって決定的にこの説が権威づけられたと考えられる。ところが、昭和三十七年(一九六二)に刊行された上梓された詳細な円朝伝である永井啓夫著『三遊亭圓朝』(青蛙房刊)の「墓所」という項に、次のような記述がある。

 円朝が生前柳橋で怪談会を催した時から蒐集しはじめたという幽霊の画幅、約百幅のうち、四十幅は、藤浦富太郎氏を通じて全生庵に納められ、今日に伝えられている。

 ここでは、藤浦家から全生庵に寄贈された画幅の数を四十幅としており、その画家名を記している。その作品を本画集掲載作品番号と画家名で記すと次のようになる。

 1応挙、3〜5の光峨のうち一点、6是真、7・8綾岡、9玉章、10・11容斎、12省亭、13・14楓湖、15永湖、16文一、17文中、18誠一、20芳年、21国歳、22広重、23芳延、24勝文斎、25暁斎、26由一、27・28月耕、30芳中、31雪翁、32英朋、34光村、35一静、36冬崖、37五岱、39林静、40芳州、41文隆、43行真、44南海、47月菴、48甘禄、49の秋巌と雪窓が別々に二点として数えられている。

 この四十幅をもとに、その後の寄贈を加えて『円朝全集・別巻』の五十幅となったと考えた方がよさそうな資料がもう一つある。第33図の今村紫紅(一八八〇〜一九一六)の画幅に付属する藤浦富太郎氏の書簡がそれである。そこには紫紅のの「月に鵜図」が鵜飼勘作之物語に取材して描かれた旨を記し、大正十一年(一九二二)十二月二十二日に幽霊画を寄贈し、その追加として本幅を加えると記されている。その日付は昭和十六年(一九四一)九月二十三日である。この書簡によって藤浦家から全生庵に幽霊画が寄贈された時期が判明し、またその一方その後追加寄贈された幽霊画の存在も確認された。先述の永井氏の著書によれば、藤浦三周氏が預かっていた円朝自筆の日記や原稿その他の多くが大正十二年九月一日の関東大震災によって焼失したという。この災害の前年に、全生庵に寄贈された画幅のみが奇しくも禍を免れた訳である。奇縁といえよう。

 この歴史的大禍を免れた四十幅の中にも、明らかに円朝が没した後に描かれた作品が二点含まれている。第32図の鰭崎英朋(一八八〜一九七〇)と第34図の光村(生没年不詳)の作品でいずれも明治三十九年(一九〇六)の夏に制作されたことが画中の款記より判明する。円朝はこれより先、明治三十三年(一九〇〇)に他界しているので、この二点は円朝生前のコレクションではありえない。明治三十九年といえば円朝の七回忌の法要が営まれた年であり、その折に「七怪奇絵葉書」が作られた。寓目した四枚の絵葉書はいずれもモノクロ写真であり、画家は鏑木清方(一八七八〜一九七二)、久保田米僊(一八五二〜一九〇六)、石井滴水(生没年不詳)、狩野素川章信(一七六五〜一八二六)で、いずれ劣らぬ秀作ばかりである。清方などは円朝と親しく交友していたことでもありこの四点も円朝コレクションであったと考えてよかろう。この四点はいずれも今に伝わらない。この七回忌と時を同じくして描かれた英朋と光村の作品が、藤浦家より円朝コレクションとして全生庵に寄贈されている事実は、何を推理させるであろうか。最も可能性の強いのは七回忌にちなんで、英朋・光村に幽霊画制作を依頼したということだろう。誰が依頼したのか。それは当然円朝の遺物を保管していた藤浦三周氏である。つまり、こういう事情が考えられる。円朝は百物語にちなんで幽霊画百幅の蒐集を目指していたが、百幅揃わないうちに他界してしまった。その後藤浦三周氏が円朝の意志を継いで事あるごとに画家に制作を依嘱したり、作品を購入したりして蒐集を続けていた。大正十一年に、自分の気に入った作品を手もとに残し、とりあえず四十幅を全生庵に寄贈し、その後も蒐集を続け、その蒐集は富太郎氏にも引き継がれた。富太郎氏は昭和十六年に紫紅作品を全生庵に寄贈した。第29図伊藤晴雨「怪談乳房榎」の箱蓋裏に「昭和二十五年(一九五〇)八月十一日全生庵什物」とあることによっても件の四十幅以外の作品が年月を異にして全生庵に入っているとこを予測させる。全生庵では昭和二十五年以降のいつのころからか、五十幅に仕立てて円朝遺物百幅の内と銘打って虫干を兼ねて公開した。

以上が現時点で推測される全生庵コレクションの形成過程である。

円朝コレクションの性格

 さて、この全生庵コレクションの中核を成す円朝蒐集の作品群にどんな性格がみられるかというのが次に検討すべきことである。

 まず、画家の属する流派や作品系統によって分けてみることからはじめよう。このコレクションの主体となるのは大きく分けて四条派系(第1〜14図)と浮世絵派系(19〜25・27〜29図)が数としては多い。次に多いのは逸名の画家たちである。文人画系統は月菴(第47図)、甘禄(第48図)の二人位である。珍品・稀品として由一(第26図)、琳派の芳中(第30図)、紫紅(第33図)や冬崖(第36図)がある。 

 これらのうち、飯島光峨(一八二九〜一九〇〇)は、明治六年(一八七三)、円朝が日本橋区浜町に転居して以来、近所に住んでいたことから親交を結び、光峨夫人より上州の?客・榛名の梅吉の話を聞いて、円朝がこれをもとに「後開榛名の梅ヶ香」を創作した程である。また柴田是真(一八〇七〜九一)は明治九年(一八七六)、本所相生町の炭商塩原太助の家にまつわる怪談話を円朝に聞かせ、円朝はこれをもとに「塩原多助一代記」を創作した。この二人の画家の作品は、円朝が直接交友関係をもっていたことが確認されるので、その縁から円朝コレクションに入っていることが考えられる。

 ついで、円朝が転居した日本橋区浜町の近隣には同区矢ノ倉町に佐竹永湖(一八三五〜一九〇九)、両替町に川端玉章(一八四二〜一九一三)、人形町に勝文斎(一八三五〜一九〇八)が住んでいた。しかもこの三人に光峨と是真、河鍋暁斎(一八三一〜九一)を加えた六人の画家たちが一緒に制作に携わった作品が伝存している。野田市郷土博物館が収蔵する押絵行燈がそれである。これは、野田醤油が野田市の敷地内に請来した琴平宮の大祭にあたって明治一七年(一八八四)に茂木家より奉納されたもので、行燈には勝文斎による歌舞伎役者の押絵が施され、行燈の明り窓には小さな絵が嵌め込まれている。琴平宮の祭事で実際に使われてきたという性格上、制作当初の数が残らず、また嵌め込み絵にも後年に補われたものが含まれているが、当初の制作と思われる三一枚の絵は、川端玉章十一枚、飯島光峨七枚、佐竹永湖五枚、勝文斎三枚、河鍋暁斎三枚、柴田是真一枚と五代目尾上菊五郎(一八四四〜一九〇三)が梅幸の号で梅の絵を一枚揮毫している。この作品は押絵を一手に請け負っていた勝文斎が中心となって制作されたと推定され、絵師の選択も勝文斎によるものと考えられる。勝文斎は河鍋暁斎の絵日記にも登場し、暁斎との交友が知られる。あとは是真を除けば全員日本橋区の住人という訳で、玉章、光峨、永湖、暁斎、是真、勝文斎の六人には交友があったと推定してよかろう。この六人の画家が全て円朝コレクションに名を連ねていることは、単なる偶然としてかたづけてよいものだろうか。

 ここで注目すべき作品は飯島光峨筆「幽霊画」(第3図)である。この絵には画中に胡粉で「乙亥春/為依遊?人幽溟會送之/光峨画」と記されている。この情報をわかりやすく解読すると、この絵は明治八年(乙亥、一八七五)の春に、遊?人の依頼によって飯島光峨が描き、幽溟会へ送ったものだ、ということだ。明治八年の春といえば円朝が二月十一日に柳橋の料亭柳家で怪談会を開いた年である*。怪談会と幽溟会どことなく似通ってはいまいか。この互に相反しない事実を結びつけてみるとどういうことになるか。それは柳家で怪談会の名称が幽溟会というもので、この怪談会に合わせて円朝が親交を結びはじめた光峨に依頼して会場に飾るために幽霊画を描いてもらった、ということになる。同じ明治八年春の制作になる松本楓湖(一八四〇〜一九二二)筆「花籠と幽霊」(第13図)も或るいはこの折に依頼されたものとも考えられる。つまり円朝コレクションの中には円朝の依頼によって描かれたものが含まれている可能性が濃厚であるということだ。このことから先程の勝文斎をはじめとする六人の画家たちの作品も、円朝と直接もしくは光峨を通して繁がりが縁でコレクションに加えられている可能性も出てきた。さらに想像を逞しすれば、明治七年(一八七四)の年記を有する光峨の「柱によりかかる幽霊」(第4図)や勝文斎筆「母子幽霊図」(第24図)も、同じ日本橋区に住む円朝自身の依頼の可能性は強い。こうした円朝自身の交友範囲に収まる可能性のある画家たちから、ついでその師弟筋へ広がる可能性は高い。是真の弟子池田綾岡(一八四〇〜一九一〇)(第7・8・図)、楓湖の師菊池容斎(第10・11図)と同門の渡辺省亭(一八五一〜一九一八)(第12図)、暁斎の国芳師事時代の同門月岡芳年(一七八八〜一八七八)(第20)、同じく国芳門の歌川芳延(一八三八〜八〇)(第23図)、同じ歌川派の歌川国歳(生没年不詳)(第21図)、容斎、暁斎に私淑した尾形月耕(一八五九〜一九二〇)(第27・28図)なえどの作品である。こうしてみると円朝コレクション四十点のうち半数が円朝の交友範囲内で調達できる。この他、高嶋甘禄筆「髑髏図自画賛」(第48図)も明治七年秋に円朝のために描かれたものであり、他にも円朝と交流のあった画家が含まれている可能性は極めて強い。こうした推理に推理を重ねた砂上の楼閣のように脆い結論ではあるが、円朝コレクションの性格は、流派や系統別に集められたものではなく、円朝自身の交友関係によって形成されたものであり、中には文化七年(一八一〇)の銘のある谷文一(一七八七〜一八一八)筆「燭台と幽霊」(第16図)のように明らかに骨董品として購入もしくは寄贈された作品が多少含まれると考えてよかろう。こうした円朝コレクションを核としてその後藤浦家その他から円朝にふさわしい作品と思われるものが寄贈され、現在の全生庵コレクションが形成された訳である。

 以上、全生庵の幽霊画についてわずかな資料に多くの臆測を加えて、その形成過程と蒐集作品の性格について検討してみた。曖昧さを残す後味の悪さを感じながらも、改めてここに収録した作品群を眺めてみると、これ程多様な幽霊の表現があったのかと感心する。本コレクションの最大の特色は、幽霊という特異なジャンルにおける表現の多様さに尽きるというのが実感である。そうした意味で他に比類のないコレクションであることは間違いなく、本書の出版によって幽霊画という日頃なじみのないジャンルへの関心が少しでも高まることを祈って擱筆する。

*この怪談会については、森銑三が「三遊亭円朝」というエッセーの中で、無窮会所蔵の依田学海(一八三四〜一九〇九)の日記を紹介している。その明治八年二月十一日の記事は「十一日、落語者円朝、柳ばしに快談会を催す。この会は幽霊画を多くあつめて、人に見す。多きが中に、菊池容斎の画きたる、最もすぐれたり。皆は、幽霊会といふに似もやらず、混雑することかぎりなし。」というもので、森はこの記事から、円朝の幽霊画蒐集がかなり早くから始められていたらしいと推定している。

 

(森銑三 『明治人物夜話』 講談社文庫、一九七三年)